1940、フィッツジェラルド著、大貫三郎訳。
Francis Scott Fitzgerald (1896 - 1940)
ぼくに心地よい悪癖をうえつけてくれたにくい作家の、未完の大作。ぼくはいつでも、なりきりのうえの恋をする。
いくらでもあるだろう─それぞれに人生がある。だが、いまキスをしただけの束の間に、彼には充分わかっていた。未来永劫さがし求めたとしても、消え失せた四月の時間は取り返しがつかない。このまま胸の筋肉が張りつめるほど、抱きしめていることもできるだろう。欲しくてたまらなかった大事な人で、わがものとするために頑張った。だが、あの夕闇に、夜の風に、かすかに聞こえたささやきは、もう二度と帰らない……。
もうよかろう、と彼は思った。四月は終わった。もう終わった。この世にさまざまな愛があるとしても、同じ愛が二度あることはない。
『常識』
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私は作家が好きだけれど―質問をすれば、どんなことにも答えてくれるから―私の目にうつる彼は小さくなった。作家はずばり大衆ではない。別の言葉で言えば、作家に取り得があるとすれば、全員ひと束になって、一人の人物になろうと懸命に努力するからだ。その点、役者に似ている。役者は涙ぐましいばかりに鏡を覗くまいとする。そう努めながらうしろへ寄りかかる―シャンデリアに照らされた自分の顔を見るのが関の山だけれど。
彼はわたしの写真だった。学校の古いロッカーの内側に貼り付けてあるみたいに。
つねに物事の外側にとどまっていること―それはそれで悲劇なのである。
サライア・テーラーは二十六歳の未亡人、現在のところ私の考えでは、私の描いたヒロインのなかでは、一番魅惑的で思いやりのある人物にしたい。新しいかたちの魅惑さです。というのも、私は、何らかの名声に押し上げられた女性的な傲慢さを身につけているタイプを、大衆がきらっていることに、私は秘かに同意しているからです。何もかも幸運だらけの者になど、人々はただただ深い同情などは寄せない。だからサッカレーの『バラと指輪』のロザルバのように、「ちょっとばかりの不幸」をこの女に授けるつもりです。
われわれはたいてい、生まれた日から死ぬ日まで写真に撮られる。フィルムが映されると、退屈と嫌悪以外は、何の情緒も生み出しはしない。どれもこれも皆、猿がひっ掻いている姿にそっくりだ。友人が赤ん坊を撮ったり、家族旅行を撮った家族映画を、どう感じる?おそろしく退屈じゃないか?
案山子

