1875、ドストエフスキー著、工藤精一郎訳。
ドストエフスキーの作品の中では、人間が「人間らしく」うごきまわる。
「神殺し」の作家だと、簡単に決めつけられない理由がここにある。
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たしかに、わたしは女というものをまったく知らない、それに知りたいとも思わない、というのは生涯女なんてものには唾を吐きかけてやるつもりだし、そう自分に約束したからだ。とはいえわたしは、これは確実に知っている、それはつまり、女には、ここぞと思う瞬間にその美貌か、さもなくば自分がちゃんと心得ているなんらかの武器で、男を誘惑するような女もあるし、また半年もしゃぶってみなければ、どういうものをもっているのかわからないような女もある、ということだ。
N'est-ce pas? Cher enfant,(そうだろう?きみ)、ほんとうの機知というものは、いよいよ先細りだよ。
わしはこう言ってやったのさ、もし至高の存在というものがあり、それがなにか被造物のうえにみなぎる精気とか、液体とかの形ではなく(それならなおのことわかりにくい)、人間の形で存在するとしたら‐それはいったいどこに住んでいるのだ?
いやしくも人間が、なにもすることがないなどと、どうして言えるのだ?ぼくはいつにせよなにもすることがなかったなどという状態を、想像できない。人類のために行動せよ、そしてほかのことはなにも考えなくていいのだ。注意してよく見れば、一生が足りないほど、することはたくさんあるのだ。
現代は‐中庸と無感覚の時代です、無学への渇望、怠惰、無能力、そしてすべて出来合いへの要求の時代です。誰も考究する者はいません。生活から思想を学びとろうとする者などはめったにおりません。
人々は、それほど気をつかってやらねばやらぬほど、決して美しいものではない。どうして彼らのほうから率直に、胸を開いて、助けを求めに近づいてこないのに、どうしてこっちから先に彼らのそばへ這いよってゆかなければならないのだ?
平凡な軽い思想ほど‐あきれるほど早く、しかも必ず群集によって、必ず街中の人々によって理解されるのである。
なぜわしたちがどうあっても、復讐に燃え、歯を噛み鳴らし、呪いあって等々という状態で別れなければならんのか?
横道にそれついでですが、実際いまの世の中には、昨日までそうだったので、つい習慣で、まだ自分を若い世代だと思っていて、実はもう予備役に入ってしまったのに気づかずにいる者が、実に大勢いますよ。
もちろん、わしは生きることを愛するし、それは事実が率直に語っている、だが、わしのような人間が生きることを愛するというのは‐卑劣なことだ。近頃なにやら新しい風潮が出てきて、クラフトのような連中はそうした現実との折り合いがつかんで、自殺する。だが、クラフトたちがばかなことは、言うまでもない。ところがわしたちは利口だ‐となると、平行線は絶対に変らぬ道理で、問題はやはり未解決のままにのこる。では、はたして地球はわしらのような人間のためにのみあるのか?そうだと答えるのが、もっとも正しいようだ。だがこの考えはあまりにも喜びがなさすぎる。とはいえ…しかし、問題はやはり未解決のままにのこる。
笑いはなによりも誠意を要求する、だが人々に誠意などはたしてあろうか?笑いは悪意のないことを要求する、ところが人々が笑うのはほとんどが悪意からである。誠意に充ちた、悪意のない笑い‐それは陽気である、ところが今日の人々のどこに陽気があるのか、そして人々は陽気になることを知っているのか?
あんぼ坂
2010年05月
とりとめのないことばかりを書きつくろってきたこのブログ。
きのう5月8日をもって一周年を迎えました。v( ̄∇ ̄)v
読んでくださっておられる方、いつもありがとうございます。また、いつもまともな日本語を使えなくて申し訳ありません。
さて、きょうの日まで取りあげてこなかったブログのタイトルについて。
"topocrat"、これは行政学の用語で「地域主義者」といって、中央の官僚機構に所属する「専門集団」、"technocrat"に対比して用いられることばです。要は「なんでかわからんけど地元が大好きで『巨人』が大嫌い、ことに地方の言い分ばかりを主張するキじるし」のことです。
ぼくは香川県の香川郡、香川町というちいさな町で生まれ、いまもこの町に愛着がありすぎて困っています。こういう"topocrat"たちは、きっと日本中、そこらの町や村にわんさかおられることでしょう。そういう人たちがなんとなく好き。大先輩たちに、敬意を込めて。
だから、"topocrat"。これからもよろしくお願いします。
あんぼ坂(案山子)
際司、元気にしていますか。
この世界では、根こぎという病苦に多くの人が苦しんでいます。この間の新聞の投書欄にも、苦しんでいる中学三年生がいたの。
「三年間、画面の前だけで過ごした」
いま、わたしたちは携帯電話やパソコンという道具を早くから手にして、それを片手に世界に飛び込んでいきます。出来事は瞬く間に、次から次へ電子の世界で繰りひろげられるの。見知らぬ誰の子かも分からぬような人間を愛すことが得意で、目の前にいる人間を愛すことが苦手。これがわたしの時代の「気分」。
あなたの時代はどうですか?人間が人間だから大事にされる。そういう気分が残っていたら、それはわたしのおじさんのことを少しでも覚えている人がまだ生き残ってるってこと。Vで名前がはじまるおじさんね。そうだったらすごくうれしい。
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1933年以後、金持ちは金持ちだけで集まって、幸せになっていました。これはFで名前がはじまるおじさんの持論だったわ。私のいた2010年もだいたいはそんな感じ。でもみんな金持ちを愛してやまないの。金持ちは金持ちゆえに大事にされる、そんな時代です。
あなたの時代もきっとそうだと思うわ。そうだったらそれもすごく素敵。
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変なことばかり書きつくろってきたけど、際司、あなたがどんな立場の人間であれ、目の前にいる人を大事にしなさい。親切にしなさい。にっこり笑っていなさい。そっけない態度をとられたって、それはそれでいいじゃない。目の前にいる人に遺憾なく親切を敲きつけてみなさい。これが真剣勝負、真面目になるってこと。真面目になって、どんどん人間らしくなればいい。そう、漱石さんみたくあればよし。
怜
新聞の切りぬきを集めてた時代がぼくにはあって、それは家のどこかしらに散らばってる。きょうトイレで読んでた切りぬきは、「イチローを語ろう」。
案山子
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イチさんは決して天才ではない。本当の天才は、自分のパフォーマンスを説明できないでしょ。でも、イチさんは自分のプレーをこと細かく語れる。努力している過程を含め、1から10まで理詰めで話せる。人に話すのが面倒くさいから、イチさんも「もう天才でいいよ」と思っているんじゃないかな。
僕がイチさんのすごさを考えるとき、打撃技術は最後の方になる。本当にすごいのは、試合への取り組み方。200安打は驚異的な数字だが、それ以上に素晴らしいのは、毎年600打席以上も立っていること。
寒いシアトルを本拠にしながら、9年間、故障者リスト入りするような大きなけががない。もう30代半ばでしょ。僕が1年目から感動しているのは、けがを予防する意識が徹底されていること。
例えば、本拠のクラブハウスのイチさんのイスは、どこにでもある普通のパイプイス。僕らはフカフカのソファなんだけどね。イチさんいわく、「フカフカのソファに長く座っていると、腰に負担がかかる」。試合前にはパイプイスの座る部分に、ホットパックを敷いて体を温めている。
本拠のクラブハウスからグラウンドに通じる通路にも、イチさん流のこだわりがある。階段とスロープがあるが、イチさんは必ずスロープで上り下りする。僕が見てきたこの4年間、その行動は変わらない。階段は、足を滑らせる可能性があるんですって。スパイクを履いていれば、ねんざするかもしれない。下手したら、それ以上の大けがもある。
年間200安打以上を打ち続ける重圧は、年々苦しくなっているはずなのに、そう見せないのがイチさんの美学。「感情を表に出すと損しかしない」と、イチさんは言っている。自分をコントロールできる範囲で野球をやるから、悲しみも喜びも出ない。精神的にマイナスなこともやらない。だから、三振しても凡退しても、堂々と胸を張ってベンチに帰ってくる。
ヒットへの考え方は超越している。いい打球を打った後、僕ら普通の打者は「落ちろ!」「抜けろ!」と思う。でも、その打者が野手に捕られたときは、ショックが大きいじゃないですか。
イチさんは打った後、「捕れ!」と意識している。打った後の出来事は、自分で制御できないというのがその理由。アウトになると思った打球が、野手の間を抜けると、精神的にプラスになるんですって。その考え方は理解できるけど、真剣勝負の場で、そう思える選手はいないですよ。
イチさんはホームランを打ってベンチに戻ってくると、「ジョー、オレの背中うれしそうだった?」と聞いてくる。僕が「うれしそうでしたよ」と答えると、イチさんは「オレもまだまだ、だな」と苦笑いする。体から感情がにじみ出るなんて、あの人の中ではダメなこと。そこまで追求して野球をやっていることに尊敬する。
誰よりも「イチロー」という野球選手を客観的に見ているのが、鈴木一朗という人物だと思う。そのうち自分のことを、「彼」なんて言い出しそうな雰囲気がある。プレーだけでなく、精神面とか体調面とか、自分のことを冷静に分析できるところが、イチさんの最大の強みだと思う。
マリナーズ・城島健司選手
William Shakespeare著、福田恆存訳。
京都大学法学部平成21年度後期講義「政治思想史」ノートより。
<イギリスにおける近代的政治の誕生>
←「わたし」に人びとが気づいた結果
※その「わたし」がそんなに良いものでないと気づいた人物が、シェイクスピア。
→シェイクスピアの全作品のなかの「マキャヴェリ」なる単語はわずかに三箇所、しかしマキャヴェリスティックの考え方は全作品に貫かれている。
『俺は微笑み、微笑みながら人を殺すことができる』
→全ての作品にあらわれるモチーフ「存在(being)と外見(seem)の分裂」(がもたらす不安・道徳的な罪の意識)
『お前どうしていつもそんなに暗い顔をしているんだい』
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当時うまれつつあった「近代」を、必ずしもよいものとみなしはしなかったシェイクスピア。「近代人」としてのハムレットの姿にその苦悩を認めることができるはず。
案山子
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ポローニアス「…ところで、王様、お妃様、そも、国王の主権、いかにあるべきや、臣下の本分、いかにあるべきや、はたまた、昼はなにゆえ昼なるか、夜はなにゆえ夜なるか、いや、なにゆえ時は時なりやと、かかる詮議だては、夜を、昼を、そして時を、ますます空費するばかり。したがいまして、簡潔こそは智慧の心臓、冗漫はその手足、飾りにすぎませぬがゆえに、ひとつ手っとり早いところを申し上げます―王子ハムレット様は気ちがい、はい、あえて気ちがいと申しあげまする…」
ハムレット「…寝て食うだけ、生涯それしか仕事がないとなったら、人間とは一体なんだ?…」
王「…いろいろ見聞きしてきたが、愛情の火花も時に支配されるもの。情熱の焔のなかには、一種のしんのようなものがあって、それがまた火勢を衰えさせもする。いかなる善も、つねに並みの高さを維持できはしない。かならず度をすごし、豊穣のうちに崩れ去るのが常。なすべきことは、思いたったときに、してしまうにかぎる。…」
ハムレット「…今の世のなかでは、牛馬同然の輩が牛馬をたくさん掻き集めて、もうそれだけで、お城へあがれる。堂々と自分の飼いば桶を御持参、王様と会食できるのさ。むだ口以外に脳のないやつだが、泥だけは、しこたま持っている。」
ハムレット「乳を吸うにも、乳房にお辞儀してかかるという手あいだ。ああいうのが―いや、いいかげんな末代の風潮に甘やかされたおっちょこちょいの雲雀連中は、ほかにもたくさんいるが―みんな時の花をかざしにし、おたがい空世辞のやりとりに憂き身をやつし、そこから気のきいた、あぶくのような文句をおぼえてきて、物事を地道に考えようとする落ちついた苦労人たちの目をくらましている。…」
ハムレット「…前兆などというものを気にかける事はない。…来るべきものは、いま来なくとも、いずれは来る―いま来れば、あとには来ない―あとに来なければ、いま来るだけのこと―肝腎なのは覚悟だ。いつ死んだらいいか、そんなことは考えてみたところで、誰にもわかりはすまい。所詮、あなたまかせさ。」
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訳者による解題より
…どの場合でもそうであろうが、翻訳には創作の喜びがある。自分が書きたくても書けぬような作品を、翻訳という仕事を通じて書くということである。それは外国語を自国語に直すということであると同時に、他人の言葉を自分の言葉に直すということでもある。そういう創作の喜びは、また鑑賞の喜びでもある。本当に読むために私は翻訳する。
…ハムレットを演じる役者には、ほんの一寸した心がけが必要である。シェイクスピア劇においては、自分の役の内面心理の動きや性格をせりふから逆に推理し帰納して、その表現を目ざすという写実主義的教義は有害無益である。ハムレットの演戯法はハムレットに教わることだ。シェイクスピア劇の演戯法はシェイクスピアに教わることだ。そのハムレットは演戯し、演戯しながらそれを楽しんでいる。そういうハムレットを役者は演戯すればいい。演戯というものが既に二重の生であるがゆえに、そこには二重の演戯がある。…これは私の持論だが、人生においても、そのもっとも劇しい瞬間においては、人は演戯している。生き甲斐とはそういうものではないか。自分自身でありながら自分にあらざるものを摑みとることではないか。
案山子
日本が好きです。
日本のあちこちに自分の帰る場所ができればいいな。
いろんなとこが元気だして、日本が元気であればいい
案山子【カカシ】は日本をわしょーいします。