-topocrat-


There's lots and lots for us to see,there's lots and lots for us to do,

「うれしげ」を地で行くにんげんが、世の中と自分との距離をはかるために、なにかしら書いていくブログです。

2010年06月

きょうの逸品【ジョス・ペロンのビスケット】

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原材料名:小麦粉、バター(30%)、砂糖、卵、食塩
原産国名:フランス

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ホロホロとした食感がさいしょ奇妙だったけど、味わい絶妙!
余計なものが入ってないのも好感もてる気がしませんか♪
しかしバターが30%!18g摂取してもうた!笑

あんぼ坂

「モンキー・ハウスへようこそ」

1968、カート・ヴォネガット・ジュニア著、伊藤典夫他訳。

「きみが、かかとに鈴をつけて入ってくるから、そのかかとや、かわいいピンク色の足に目がいってしまう」フラーはいった。「きみが猫にキスするから、その猫になったらどんな気持だろうと思ってしまう」フラーはいった。「きみが老人を天使と呼ぶから、きみに天使と呼ばれたらどんな気持だろうと思ってしまう」フラーはいった。「きみがみんなの前で鍵をしまうから、その鍵の隠し場所のことを考えてしまう」フラーはいった。("Miss Temptation")

「あなたがあたしにキスしたくなったって、どうしようもないわ!それはどっちの罪?」("Miss Temptation")

「人間の持ち物で、多少なりとも価値のあるのは精神だけだ。その精神が、なぜ皮膚という袋や血液や頭髪や肉や骨や管でがんじがらめになっていなければならないのだ?食物をつめこんだり、天候や細菌から護ったりしなければならぬ寄生物に一生とりつかれていれは、人間がろくな仕事をできないでいるのも不思議はない。しかも、その愚にもつかぬ代物はいずれ消耗しきってしまう―よしんば、いかにつめこみ、いかに保護したとしてもだ!いったい、だれが真にそのようなしろものの必要を認めているだろう。どこへ行くにも、バカバカしい思いをして運んで歩かねばならぬ原形質の固まりのどこがそんなに良いというのか。この世界の悩みは人間が多すぎることではない―肉体が多すぎることだ」("Unready to Wear")

「馬鹿な人たちだ。あんたがたは不安なしでは生きていかれない。あんたがたにできることといったら、それしかないんだ―つまり、うまくことを運ぶために自分自身を、そして他の人間をおびえさせることしかしない。そうかと思うと、人々のからだになにかを加えたり、からだから何かを取りあげたりして、その人たちが恐怖にとびあがるさまをみては喜ぶ―あんたらの楽しみはそれしかないんだ」("Unready to Wear")

本文より引用

Iron Man 2



AC/DC、かっこよすぎですね!

あんぼ坂

「移動祝祭日」

1961、Ernest Hemingway著、高見浩訳。

もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。

ある友へ
アーネスト・ヘミングウェイ
1950年

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「あなたたちがそれなのよね。みんなそうなんだわ、あなたたちは」ミス・スタインは言った。「こんどの戦争に従軍したあなたたち若者はね。あなたたちはみんな自堕落な世代なのよ」("ユヌ・ジェネラシオン・ペルデュ")

たとえ偽りの春だろうと、春が訪れさえすれば、楽しいことばかりだった。問題があるとすれば、どこですごすのがいちばん楽しいか、という点に尽きただろう。一日を台無しにしてしまうのは人との付き合いに限られたから、面会の約束さえせずにすめば、日ごとの楽しさは無限だった。春そのものと同じくらい楽しいごく少数の人たちを除けば、幸福の足を引っ張るのはきまって人間たちだったのである。(偽りの春)

ゼルダは実に美しかった。肌は愛らしい黄金色に焼け、髪は美しい翳りを帯びた黄金色。それに、すこぶる愛想がよかった。鷹のような目は、澄んで穏やかだった。これなら何も問題はないし、最後にはすべて吉と出るだろう。そう思ったとき、彼女はこちらにつと身を傾け、とびきりの秘密を打ち明けるようにささやいたのである。「ねえ、アーネスト、イエスよりはアル・ジョルスンのほうが偉大だと思わない?」
そのときは、だれもそのことを問題にしなかった。鷹も何かを人間に分かち与えるのかもしれないように、それは、ゼルダが私に分かち与えた秘密にすぎなかった。しかし、鷹とは、他者に何も与えない動物なのである。その後スコットは、ゼルダが正気でないことに気づくまで、傑作と呼ぶに値する作品を何ひとつ書けなかった。(鷹は与えない)

ここに、愛し合う二人の男女がいて、幸せに暮らしており、彼らの一人
もしくは二人ともが本当に優れた仕事をしていると、人々は、あたかも渡り鳥が夜間、強力な灯台に引き寄せられるように、その二人に確実に引き寄せられるものである。もしその二人の絆が灯台のように堅固だったら、渡り鳥の側は別にして、被害はほとんどないだろう。だが、自分たちの幸福な暮らしぶりと仕事ぶりで他者を引きつけるカップルは、えてして、経験に乏しいものなのだ。他者に蹂躙されずにうまく身をかわす術を、二人はまだ身につけていない。善良で、愛嬌があり、魅力的で、人に愛されやすく、寛大で、物わかりのいいリッチな連中は、低劣な嗜好を持っているわけでは決してなく、毎日を祝祭のように華やいだものにするのだが、ひととおりの交際を経て、目的の栄養分をすっかり吸いとってしまうと、こんどはあらゆるものを、あのアッティラの軍馬の蹄が蹴散らしたどんな草の根よりも干からびた状態に放置して、立ち去ってしまうのだ。

パリには決して終わりがなく、そこで暮らした人の思い出は、それぞれに、他のだれの思い出ともちがう。私たちがだれであろうと、パリがどう変わろうと、そこにたどり着くのがどんなに難しかろうと、もしくは容易だろうと、私たちはいつもパリに帰った。パリはそれに値する街だったし、こちらが何をそこにもたらそうとも、必ずその見返りを与えてくれた。が、ともかくもこれが、その昔、私たちがごく貧しく、ごく幸せだったころのパリの物語である。

本文より引用

「文学評論」

1909、夏目漱石著。

I say that the coarseness of the period was mainly caused by the seperation of the men from the women in their natural amusements.
(で今申した通り当時の卑猥な風俗の原因といえば、全く野郎が野郎でかたまってしまって、両性に尤も自然な娯楽を女とともにしなかったからだと断言する。ウォルター・ペザント)

一度び常識の薫陶を受けて、常識以上の修養をする機会がないと、現在の凡てが、永久に正当なものであるかの如き考になる。この社会が正当の社会で、この道徳が正当の道徳で、この政体が正当の政体で、万事が正当であるから根本的に満足である。異を立てる必要もなし、奇を衒う了見も起らず、行状坐臥尋常の世界にあって満足である。・・・アチソン、スチールの生れた倫敦は正にこれであった。

常識は日ごとの俗事以外に問題を作らねば、思索も及ぼさない。常識以上の詩、常識以上の興は真偽、美醜、善悪、壮劣の各方面にわたってかつて接触することがない。

ただ残るものは、横からも、縦からも、斜めにも見られる広い世界を、ただ道徳の二字で貫いて、何でもかんでも道徳的に眺めている彼らの平面的限界、直線的視線である。

世の中は纏まったものではない冗漫極ったものだという人がある。それは同意しても好い。しかし自己が世の中を観察する態度がきまると、世の中も存外締め括りのあるものである。

本文より引用

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